2003年10月号会報 巻頭言「風」より

環境教育における経済

国立環境研究所社会環境システム研究領域 森田 恒幸・藤野 純一


1.なぜ環境教育に経済教育が必要か?

環境至上主義や経済至上主義は、環境もしくは経済の一方だけを重視した単純な論理であるため、一見わかりやすいが、環境問題の根本的な解決には結びつかない。真の問題解決の駆動力は、環境保全と人間生活・経済の対立に悩み、克服している現場にあるはずで、教育や行政の機能を補充するNGOが重要な一翼役割を担っている。

環境教育の役割は、環境側と人間生活・経済側の双方から袋叩きにあうことを覚悟して、対立をもたらす両者の本質とその変遷を鋭くえぐり出し、それを現場に伝えることにより、問題解決に向けた斬新な風を常に送り続けることにある。ただ、人間生活の本質とその変遷を理解することに比べて、それを支える経済システムの本質と変遷、さらに経済システムと環境保全の本質的関係を理解することは、一般の人々にとっては難しい。しかも、環境技術によるイノベーションが経済発展にどう役に立つかなど、経済システムの本質に関する知見は、学術の最先端で日々更新されつつある。したがって、最新の知見を現場に伝え、「両刃の剣」としての経済システムの知識を習得させ、経済システムをうまく使いこなすための教育が必要である。環境教育と社会経済活動の理解を同時に進めることによって初めて、持続可能な社会経済システムが構築されると言えるのである。

2.なぜ経済システムと環境保全は常に対立関係を引き起こすのか?

経済システムは、人間生活の豊かさをもたらす直接的な手段である。一方で、環境保全も人間の豊かさを支える重要な手段であることに変わりない。しかし、人間の豊かさに関係する自然条件を維持・回復することだけに焦点が当てられがちである。

豊かさをもたらす直接的手段としての経済システムは、目的が明確で短期的に社会で運用されるのに対し、それを支える自然条件への影響は、複雑で長期的に社会で認識される。したがって、環境保全は複雑な認識プロセスを経て経済システム運用と統合されることになり、その統合には常に遅れが生じてしまう。例えば、企業への投資には短期的な業績が求められるが、環境保全を考慮しながら材木を伐採し、植林して森林を成長させるためには、何十年という時間がかかる。

近年は、人間の豊かさを支える自然条件がより厳しくなってきたことを背景に、自然条件の制約を前提として経済システムを設計するアプローチが提案されてきた。しかし、このようなアプローチをとるとしても、経済システムは環境以外の要因で大きく変化することは間違いなく、かつ人間活動と環境の関わりが非常に緊迫している状況では、環境への影響は明確に認識することが困難で、環境保全の経済システムへの統合は常に不完全である。以上のことから、単一的な経済システムと多次元である環境保全は常に対立関係を引き起こす宿命にある。共に人間生活の豊かさを究極の目的としているはずだが、その視点が忘れられがちである。

経済システムを論じるためには、その基礎になる「経済学的認識」の本質を理解させなければならない。そのために重要な概念として「一般均衡」と「パレート改良」がある。一般均衡とは、市場における需給調整を全ての財・サービス、生産要素(資本・労働・土地・資源)市場について想定し、複数の市場均衡(需要と供給が各市場において一致し、市場価格が成立する状態)が同時に成立する状態である。これらの均衡状態は、企業や家計などの経済主体の需要・供給行動が最適化行動(効用を最大化する行動)に基づいて行われると想定されている。この一般均衡理論は、市場がうまくいけば、家計・企業がそれぞれに自分の利益を求める限り、経済全体もうまくいくという思想の元に構築され、その解の存在を証明した理論である。宗教や独裁者がいなくてもうまくいくような小さな政府を想定している。

パレート改良とは、実際の市場では経済学でいう最適にはならないが、それを政府の機能などで改良する可能性がある状態である。たとえば、費用便益分析を使ってより最適な状態への改善が試みられるが、実際には政治的要素などが絡まり合い、必ずしも経済学的に最適な状態にはならない。

現在の経済システムは経済学者が望むような万能なものではないため、経済学者は理想の市場と現実の市場とのズレを「市場の失敗」として説明した。市場の失敗とは、公害問題や公共財の最適な需給が市場の自動調整作用に委ねている限り、必ずしもうまくいかない現実に対する経済学者の認識である。

しかし、経済学では市場の失敗を経済システムの一要素としか捉えず、また短期的な視点でしか扱われないため、たとえば環境保全などは単純化され、過小評価されがちであった。このように経済学は、すべてを経済学の枠組みで評価しようとする傾向があるが、環境の閾値(ある値までは影響が殆どないが、その値を超えると非常に大きな影響を与える境目の値)や不可逆性(経済学では、環境影響の経済損失などを単純化して連続関数として扱いたがるが、一度壊れた環境を元に戻すのは大変困難で莫大な費用が必要になるケースがある)の扱いには問題が多い。

だが、経済学の理論は社会科学の中では最も洗練されたもので、現実の社会でも広く活用されている。現在では、環境保全を市場の中で評価していく試み(環境税や生態系の価値評価)も進められている。

3.経済システムと環境保全の関係の多面性

そこで、環境教育の中心は、経済システムと環境保全の関係の「多面性」に置くべきである。一般論として、人間活動の拡大は環境に悪影響を及ぼしてきた。しかし、その後は、経済発展が環境保全を支え、また環境政策が経済発展を支えていることも事実であり、一定の経済発展なしでは、もはや環境を維持するための投資はできなくなっている。これは、途上国で環境破壊が放置されていることからも明らかである。さらに、市場による効率的な資源配分が阻害されると、資源の無駄遣いが地球規模で生じることになるし、市場を通じた技術移転なしには、資源利用の効率は上がらない。また、国際マーケットによる食糧、エネルギー等の取引がなければ、これらの輸入国の自然環境は維持できない。例えば、1970年代の中国は貿易を制限したことにより、深刻な食糧不足が生じ、農地を確保するために急速に自然環境が破壊され、現在でもその影響が残っている。もはや自然システムと経済システムを独立に論じることはできない。

経済発展が公害問題の解決を支えてきた面もある。日本の公害の歴史を振り返ると、一人あたり国民所得の増大とともに、初期の段階では環境劣化が進んだが、所得がある水準を超え公害問題が顕在化すると、環境保全技術への投資が促され環境の改善が進んだ(環境クズネッツ曲線)。また、環境政策がイノベーションを誘引し、長期的な経済成長のポテンシャルを拡大させた面もある(ポーター仮説)。さらに、環境政策は環境産業を育て、消費者の環境プレミアムを高めることにより、新しい付加価値の市場を形成しており、環境政策の形成やその実施を競争的なマーケットが支えてきた面もある。現在は、ITや自動車など環境の付加価値を武器にさらなる市場の開拓が進められており、市場を活用した政策手法が環境保全に有効になってきている。こういった視点で現在進められているのが炭素税で、市場を通じたフィードバックを観察することで環境・経済の両面を考慮した政策手法が立案できる。

環境教育を行う際、最先端の研究現場の話題を伝えることも重要である。環境保全と経済システムとの関係は、新たな環境問題の登場により、大きく変わりつつある。例えば、異常気象に関する関心の高まりのなかで、非定常な状態を経済システムの中にどのように内包していくのか、が次のIPCC(気候変動に関する政府間パネル)でおおきな話題となるだろう。一方、環境保全にとって望ましい経済システムは、公害対策や温暖化対策のそれと、生態系管理のそれとは基本的に異なるという報告もある。つまり、温暖化対策はglobal(世界的)な問題として捉え、世界経済を背景とした集中的な投資による技術発展が効率的だが、生態系保全はregional(地域的)な問題として捉え、生態系を守る知恵やノウハウを伝承する地域社会経済を発展させることの方が効率的ではないか、との指摘である。両者の溝を埋めるものとして、今まで貨幣体系に組み込まれなかった地域内の連携を価格付けする地域通貨が、一つの架け橋になるかもしれない。

4.環境教育の重要性-すべては現場で理解されてこそ

ただ、全ての情報や研究は現場に降ろして理解して、初めて生きてくると言える。それに対して、今までの理論や研究は、あくまでも特定の条件のもとでのみ通用するものであり、その点に対する批判もあった。そこで、仮想的な社会を想定して理論を当てはめ、その結果に対する当事者の意見を反映するなどの試みも行っているが、最先端の研究現場は、その学術的解決の糸口を環境保全の実践現場の観察に求めている。すなわち、環境教育の現場が経済理論具体化の現場であり、また最先端の研究の現場でもある。

環境教育と経済という、一見相矛盾する問題を自らの問題として捉え、現場で悩みながら理解し実践する人々が一人でも多く輩出されることを願う。