2006年6月号会報 巻頭言「風」より

寺子屋に学ぶ

藤村 コノヱ


教育基本法の改正議論が盛んです。特に愛国心をめぐっては与党内でもかなり揉めたようで、改正案の文面からもあちこちの思惑をつなぎ合わせた様子が読み取れます。一方環境に関しては、改正案第二条(教育の目的)に「4.生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと」と記述されています。こうした点が盛り込まれることは歓迎すべきなのですが、どうも改正議論そのものの順序が違う気がしてなりません。教育は、個人としての人格形成と、社会の一員としての人格形成の二つの側面があり、前者はいかなる時代でも不変であるのに対して、後者は時代により変化するものだと私自身は考えています。しかし、今回の改正議論ではそのあたりが混在しているようですし、何より、日本をどういう国にするのか、その為にどんな人間を育てるのかといった本質的な議論がまるで聞こえてきません。こうした議論がないままでは、どんな立派な文言の法律ができても、現状の教育並びに子供を取り巻く殺伐とした状況から抜け出すことは不可能です。

ところで、環境文明21では、今年から三井物産環境基金の助成をうけて、「日本の持続性の智恵」プロジェクトを進めています。これは、日本の伝統・文化の中にも、世界に誇れる日本独特の持続性の智恵があるはずで、それを発掘し世界に発信しようというものです。プロジェクトはスタートしたばかりですが、私は日本の教育や子育ての中で、持続性の智恵をどう伝え教えてきたかを探ってみたいと考えています。

その作業の一環として、関心を持ったのが「寺子屋」です。日本人の識字率の高さは海外から評価されてきた、日本の誇りの一つですが、寺子屋はその原点ともいえます。寺子屋は、古いものは室町時代後期に遡り、寺院の師弟教育から始まったようですが、享保の改革以降からの商業の発達により、庶民の生活に文字や計算が不可欠になったことや、幕府及び諸藩の政策遂行のため、諸法度、お触書などを文書にして領内一円に配布したことなどから、読み書きそろばんが出来なければ生きていけない時代となり、庶民の教育機関として、全国各地に開設されたようです。

この寺子屋教育で注目すべき点は多々ありますが、私が興味深く思った点は、一斉授業は行われず個別指導であった点と、生きるために必要な基礎的学力の習得とあわせて人格形成の双方を目的として行われていた点です。

個別指導については、例えば、読み書きに加えて、それぞれの家業に応じた教育が施されていて、商家の子供には「商家往来」という教材を使って、「朝早く起きて店を掃除」「一見の客にも同様の対応を。愛想よく・・・・」など商人の心得を、また農家の子供には「百姓往来」という教材を使って、農機具の使い方から、家の造作や日常食、農業に関わる倫理、生産活動や日常生活や災害時に必要な知識・ノウハウまで教えていたようです。さらに、一人ひとりに同じ教育ではなく、それぞれにカリキュラムが組まれていたという資料もあります。数多くの往来物(教材)からも当時の学習熱の高さが伺えますし、寺子屋の様子を物語る当時の絵画にも、子供たちの生き生きとした姿が数多く描かれています。まさに子供が主役の学校だったわけです。

もう一つの注目点は、西欧では、「学ぶ」という行為が単に能力や技術の習得として考えられていたのに対して、当時の日本では儒教思想の影響から、学問を通じて道徳の実践者になることに目的があると考えられ、寺子屋でも単なる"知識"ではなく、人として生きていくのに必要な"智恵"を授けていた点です。読み書きを教える場合も、道具の使い方や姿勢、教えを請うときの礼儀作法まで幅広く教えていたようで、社会の一員としての道徳・倫理も授けていたと思われます。

言葉としては、持続可能性などというのはこの時代にはなかったでしょうが、子供の自主性を重んじつつも、一人の人間として、社会の一員としてしっかり成長できるよう、きめ細かな学問を施し、社会全体で次世代を育てていたことが、質の高い江戸文化と、資源循環型の社会を形作る礎になっていたのだと思います。

しかし、こうした教育も、明治5年に学制が発布されて以降、個別指導は姿を消し一斉指導へと移行していきます。また教育の目的も道徳的な教育よりも国力の発展のための知識や技術に主眼が置かれるようになり、さらに戦後はその反省から「個」を大切にする傾向が強まったといわれます。そして今またその見直しが行われているわけです。

ここ最近、子供たちを取り巻く環境はますます悪くなっているように感じます。学校の行き帰りに犯罪に巻き込まれる悲惨な事件も後を絶ちません。少子化をめぐる議論もやっと始まったようですが、その対策案は、従来の発想の域を出ない、表面的な「経済支援」が主流で、これでは少子化は止まらないだろうという気がします。さらに、激務ゆえに産婦人科を志す若者が激減し、あちこちの産科が閉鎖されているというニュースも耳にします。本当に、日本の社会はこれからどうなるのだろう?という不安に駆られますし、全ての命の基盤である環境のみならず、子供の教育や人の命そのものまでも、「経済」という秤にかけてきた結果が、今の状況をまねいたのだと思います。

温故知新。物質的には今と比べようもないほど貧しかったにもかかわらず、江戸時代の大人たちは、豊かな心と愛情で、次世代をしっかり育てていた事実(これは当時日本を訪れたヨーロッパ人識者の目にも強く印象づけられた由です)をしっかり学び、法律の文言云々ではなく、損得ぬきで次世代を育てることの意義や喜びを本気で語り合い、子供たちが生きいきと生きられる社会(=持続可能な社会)にしていくことこそが、今の日本に必要なのではないでしょうか。