2006年8月号会報 巻頭言「風」より

温暖化対策における「学者」の社会的責任を問う

加藤 三郎


最近は「企業の社会的責任(CSR)」がよく論じられるようになってきた。企業は、地域社会や従業員などと密接にからまって活動しているだけでなく、大気、水、土地などの環境資源を使い、また環境に影響を与えながら企業活動をしている以上、企業には社会的な責任があるという考え方が強くなってきたからである。

この議論が深まるにつれて社会的責任が問われるのは、何も企業だけでなく、各種の自治組織や個人についても社会的責任があるということで、企業の頭文字であるCをとり除いてSRという言葉も使われるようになってきた。これにはもちろん、NPOの代表である私にも、また学者にもあてはまる。まして独立法人とはいえ、国の税金から大部分がまかなわれている国立の大学や研究機関の学者・研究者はより重い社会的責任を背負っていることは言うまでもない。

一方、個人であれ、学者であれ、誰であれ、公共の福祉に反しない限り、思想や言論の自由は許されている。特に学者については世の中で定説と思われている見解に対しても、きちんとした研究に基づいて異説を提示し、それが学問上の新しい発見に繋がり、新たな地平を切り開いてきた事例もよくある。だから、学者・研究者といわれる人たちが世の定説に敢えて逆らうことはむしろ歓迎すべきことである。ただ、学者であれ誰でもそうだが、その言っていることが正しい方向を指し示し、歴史の評価に耐えて、やがて定説にまで成長していく力と内容を持っているか、その見識が問われるのは当然である。また内容如何によってはその思想や発言に対し、道義的な責任が発生する場合もあり得るわけである。

ところが最近、地球温暖化の科学や対策のあり方について、学者と言われる人の認識や主張に強く疑問をさし挟まざるを得ない意見が散見され、この人の社会的責任の感覚はどうなっているのかと考えざるを得ない事例が目につく。ごく最近の例で言えば、6月29日付け読売新聞の「論点」に載った東京大学生産技術研究所副所長の渡辺正教授の意見である。詳しくは原文に当たってもらうしかないが、私が理解する彼の主張のポイントは「温暖化が真実だろうが虚構だろうが、実効ある防止策は思いつかない。政府がすべきことは、何もしないのが最善である。」というものである。 渡辺氏の論点を一読すると科学者が長いこと積み上げてきた成果に反することがいくつも書いてあるのに驚かされるが、幸い、国立環境研究所の江守正多氏が反論している(8月2日付読売新聞「論点」)のでここでは触れない。しかし、渡辺教授が世界の平均気温が過去30年間上がった主な原因は、ヒートアイランド現象だとしている点は、はなはだ問題だ。

彼の意見は、地球の平均気温が上がっているのは、ヒートアイランド現象で温度の高い大都市のデータをかき集めて高くしている、つまり温暖化の実態は上げ底データに基づいていると言っているに等しい。おそらくその認識が「温暖化が真実だろうが虚構だろうが」の発言に繋がると思うのだが、このような認識を日本化学会副会長でもある方が述べている事が私には納得いかない。「温暖化、温暖化と世間は騒いでいるが、これはヒートアイランド現象が主たる原因にすぎないのですよ」ということを万人が納得する科学的データを添えてしかるべき学会で、論証しながら主張すべきであろう。世界の第1級の数多くの学者が何十年もかけてたどり着いた結論に異論を唱えるのももとより自由であるが、その異論が科学の場で厳しく検討されるべきであることはプロの学者である渡辺教授は当然ご存知の筈だからだ。

本欄本年6月号「まだまだ手がある温暖化対策(2)」でも述べたように、近年の温暖化が人間活動によって人為的に引き起こされているという結論に対する疑問として、太陽活動説を述べている専門家がいる。例えば月刊誌の「諸君」本年6月号に掲載された帝塚山学院大学の薬師院仁志助教授の「やっぱり『地球温暖化』論は眉唾物」の中で、彼は太陽黒点など太陽活動との関連に触れている。ヒートアイランド説であれ太陽黒点説であれこれが正しいと信ずるのなら、科学的論文を書いて世界の科学者をぎゃふんと言わせて欲しい。人間社会の今日と未来に関わる重大問題に関する科学界の定説に異議を申し立てているのであるから、その説が正しいなら、ノーベル賞に値する大業績ということになる。世界の学説を覆す大学者の出現!という慶賀すべき事件となる。ただしこれがそれこそ眉唾物ならばノーベル賞どころかノールス(脳留守)賞になってしまうであろうが。

渡辺教授によれば、価格が安ければ家庭や企業は言われなくても省エネに励む。では政府は何をすればいいのか、「少なくとも温暖化対策については何もしないのが最善」ということになる。そしてこれに関連してCO2排出量を減らすようなことをすれば「経済活動を縮小せざるを得ず、そのとき300万人規模の失業者が出てしまう」と主張している。問題はこの認識である。環境対策をすれば経済活動を縮小せざるを得ないという認識がそもそも間違いである。過去数十年に及ぶ日本の環境対策の歴史と経済発展との関係については長いこと論争されてきたが、むしろプラスであるとの評価が一般である。特にそこで培われてきた様々な新しい技術や脈動する環境関連ビジネスの出現は様々に検証されてきたが、渡辺氏の意見にはその認識がまるで感じられないからである。

この発言で思い出すことがもう一つある。それは、本誌本欄2005年3月号でも紹介した水俣病最高裁判決の意味である。ここで判決内容等を繰り返すのは避けたいが、要は、水俣病について、熊本大学医学部が明らかにした昭和34年時点、つまり、まだ学会のコンセンサスになったわけでもなく、まして政府が水俣病の原因として認めたわけでもなかった有機水銀中毒説でもって、最高裁は「国と県は排出源を高い可能性で認識できたにも関わらず、排出規制をしなかった国及び県の対応は著しく合理性を欠き違法である。」と行政の不作為責任を認め、患者の認定についても高裁の判決を支持したことである。この最高裁判決は、水俣病についての科学的根拠、行政に求められるアクション、被害者の救済などを巡って長年にわたって行政や司法の場で論争されてきた事案に対する司法の最終判断を明確に示した。

地球温暖化についても、水俣病の場合と同様、長年にわたって、そもそも温暖化しているか、その理由は何か、このままいったら将来はどのくらい温度は上昇するのか、どのような影響が予想され、それに対しどのような対策をとるべきか、国連や各国政府は何をすべきかなどを巡って、第一級の専門家が時には激しく論争しながら、考えられるあらゆるオプションの検討を重ねて、辿りついているのが、国連の専門家パネル(IPCC)の見解である。(注:この見解も、科学上の知見の進歩をベースに概ね5年ごとに強化修正されて公表されている。次回は明07年に最新の知見が公表される予定。第1回の1990年以降、時間を経るごとに温暖化の実態と予想される影響についての認識は厳しくなり、危機感は深まってきている。)

政府は何もしないのが最善であるどころか、もっとすべきであると私は考え「まだまだ手がある温暖化対策」を本欄で主張している。渡辺氏が指摘する日本の高い省エネ技術にしても、政府が何もしなかったら、こうはいかない。大気汚染対策、京都議定書の締結、省エネ法の改正など、政府がそれなりに対策をしてきたからこそ省エネ技術や環境技術が進んできていることは明らかだ。それなのに何もしないことが最善だという主張には、私はとうてい同意できない。

去る7月17日、サンクトペテルブルグ主要国首脳会議で採択された議長総括において、エネルギー安全保障に関して「温室効果ガスの排出を削減し、気候変動に対処するとの目的を達成することに対する我々のコミットメントを再確認する」と述べられている。この「我々」のなかには、地球温暖化の科学に強い疑念をかつて表明し、今もって、京都議定書には否定的な政策をとり続けているブッシュ大統領も含まれている。しかし、そのブッシュさんでも、渡辺教授のように「政府は何もしないのが最善」などとは言っていない。

こういうことを書いている今も長野県や鹿児島県、熊本県で猛烈な異常気象現象が発生していることをテレビが報じている。またフランスなどの西ヨーロッパやアメリカ全土で記録的な猛暑に見舞われ、熱波で死亡する人が増えていることを伝えている。国連の環境省(UNEP)が最近まとめたレポートは、昨05年に世界中で発生した主な異常気象現象を1月から12月各月毎にまとめて発表しているが、これを見ると、地球の各地で異変が起こっていることが一目でわかる。

こういう異常気象といわれる現象が単に地球上の循環現象として起こっているのか、黒点などの太陽活動の結果なのか、そもそも温暖化事態そのものが都市部のヒートアイランドの反映にすぎないのか、それは遠からず誰の目にも明らかになろう。その時にはこのような主張をしている私も、渡辺教授も、各々の見識が問われ、各々なりに社会的責任が問われることになろう。

私たちは、渡辺氏たちが言うように、環境対策の仕事が失業しそうだから温暖化のことを騒いでいるわけではない。むしろ温暖化などが起こらず、早く失業したいものである。他にしたいことは沢山あるのだから。しかし科学の積み上げと事態の推移をみると私たちが失業する前に、温暖化の悪影響により、人類社会がより大きな困難に直面しているのではないかと心より懸念している。