2009年9月号会報 巻頭言「風」より

「経済」に翻弄されない「教育」を

藤村 コノヱ


夏の暑いさなか、一目で就職活動中とわかる黒のスーツ姿の若者をよく見かけます。7月の有効求人倍率が0.42倍と3カ月連続で過去最悪を更新し、正社員有効求人倍率は0.24倍という状況の中で、大変な時代に遭遇したものだと人ごとながら気の毒になります。その上2、3年前のように企業が好調でゆとりのある時は将来伸びそうなユニークな「人材」を採用するのだそうですが、今のような時代は即戦力になる「人手」を採用するとか。個性や特技などといった人間性よりも、いかに会社にとって得かという観点から採用が決まるケースが多いのだそうです。そうした就職活動は三年生の後半から始まり、それが決まるまでは授業も卒業論文も後回しというケースも普通で、大学生の本分である学業よりも企業の都合が優先される昨今。高学歴ワーキングプアも深刻で、折角苦労して博士になっても就職先がないという若者も増えていて、社会人としてこれからという若者にとっては本当に厳しい時代です。

一方、親の経済格差が子供の教育にも大きく影響し、家庭の経済的な理由で高校を中途退学せざるを得ない子供たちも増加しているなど、経済動向がこれほどまでに若者や子供たちに深刻な影響を与えている現実に愕然とします。持続可能な社会を作る上で「環境」と「経済」の統合は必要ですが、「教育」と「経済」の関係はどうあるべきか、もっと大人は真剣に考える必要があるように思うのです。ほんの短期間が教育現場にいた経験から、私自身は、教育は暮らしや社会経済活動などの基盤として、誰もが平等に機会を与えられ、「個々の人格」を高め「平和的な国家及び社会の形成者」としての資質を高めるにふさわしい質の高い教育を受ける権利を有しており、その権利を保障するのが政治の役割、大人の役割だというように考えています。そうした意味で、家庭教育や義務教育までが「ビジネス」化するのはおかしいと思います。しかし、そうした思いとは裏腹に、ここ数十年は、「経済」が「教育」を左右し、大人社会の都合で教育の本来の目的が捻じ曲げられてきたように思えます。

もともと私的領域にあった経済が、公的領域にある教育に深く介入してきたのは1960年代以降の高度経済成長期からのようです。(勿論明治維新を機に、江戸時代の人間性重視の教育から、「近代国家の建設」に向け学制が公布されるなど大きな転換期もありました。)国民の進学需要も拡大する中で経団連は、「新時代の要請に対応する技術教育に関する意見」を発表し(昭和31年)、技術者の計画的育成や理工系大学教育の拡充などを要求したことから、高度経済成長を支えるための科学技術教育や学力重視の教育が大きく進展することになります。そして、池田内閣による「所得倍増計画」(昭和35年)を契機に日本中が高度経済成長の道をまっしぐらに走るようになると、文部省も「日本の成長と教育-教育の展開と経済の発達」(昭和37年)を公表。さらに翌年には、政府の経済審議会が「経済成長における人的能力開発の課題と対策」の答申を出すなど、次第に経済界からの教育への要求が教育政策の本流に取り入れられるようになっていきます。

しかし教育現場では、そのスピードや要求に対応できず、教育内容の肥大化と詰め込み教育についていけない児童・生徒が増加。いわゆる、「落ちこぼれ」や「校内暴力」などが深刻な社会問題になったのもこの時代です。もともと教育は中長期な視点で取り組むべき課題であり、短期的視点で動く経済活動とは時間スケールが全く異なるものです。しかし、そうした根本的な違いを無視した経済界からの要求が、教育現場の混乱を招き、子供たちの内なる叫びが「落ちこぼれ」や「校内暴力」といった形で現れたことは、至極当たり前のことだったように思います。

こうした状況を危惧した教育界からは、その後再三にわたり教育改革が叫ばれ、平成8年には「ゆとり教育」といった形で教育の正常化を図る動きもありました。環境教育など「生きる力」に重点が置かれたのもこの頃です。しかし、10年後の平成18年には、日本経済の停滞、国際競争の激化、更には学力の低下に伴う国力の低下の懸念から、ゆとり教育の見直しが行われ総合的学習の時間や環境教育の時間も削減される方向にあります。

「人こそが国の礎」であるにもかかわらず、経済という短期的な視点で、10年そこらで、こんなに教育方針が変わることは社会の持続性の観点からも決して望ましいことではありませんし、それでなくても、温暖化の進行や異常気象の多発など厳しい時代に生きていかなければならない子供たちのことを考えると、無責任としか言いようのないことです。

それでもこの国のリーダーは「経済メガネ」でしか教育を見ることができないようで、衆院選の各党の教育に関するマニフェストを見ても、一クラスの少人数制の実現、国立大学の運営費削減の見直し、全国学力調査など目先の議論ばかりが目立ちます。教育基本法について、自民党は「公教育」の重視ということで道徳教育や伝統文化教育の強化を掲げ、民主党は目指す教育として「日本を愛する心を涵養する」を掲げていますが、そもそも、この国をどんな国にしていくのかのビジョンも議論も全くない中で、教育の目指すべき姿やその実現方策など本気で考えているとは到底思えませんし、説得力がないのは当たり前です。当然ながら、「経済」に翻弄されない教育基盤をどう確立していくのかなどの議論も全く見られません。

会報でもたびたび掲載しましたが、環境文明21では、環境文明社会を考える中で、政治、経済、技術と並び「教育」を大きな柱に据えています。現時点では、「知識教育から思考教育へ」、「公共意識を育てる教育」、「自分の幸せだけでなく他者や次世代の幸せを考えられる人づくり」など、断片的な要素が多く本質的な議論には至っていませんが、環境文明社会の姿とあわせて、目指すべき教育の姿、そして経済との関係についても議論し、環境文明21らしい試案を出したいと考えています。ぜひ皆さんのお考えをお寄せください。