2011年1月号会報 巻頭言「風」より

「教育」のたて直しから

藤村 コノヱ


新しい年を迎えて、いかがお過ごしでしょうか。

年末年始も、世界各国から異常気象による猛烈な寒波、洪水などの被害が伝えられ、温暖化に伴う気候変動がますます現実味を帯びてきたことを実感します。しかし国内での温暖化対策は後退につぐ後退で、これから先ますます頻発するであろう異常気象とその影響への不安が募るばかりです。 温暖化だけではありません。格差は広がり、虐待や犯罪も増え、雇用も失われ……といった具合に、私たちの社会は「幸福」とはますます遠ざかっています。しかし、国民の大きな期待を背負って誕生した現政権も、いまだに日本の進むべき方向性も示せず、「これから党としての理念を綱領としてまとめる」などと暢気なことを言っている状況です。当面、政権をとるためだけに寄せ集めでできた政党に期待するのは無理なようで、やはり、私たち一人ひとりが危機感をバネに変えて、覚悟を持ってそれぞれの立場で取り組んでいくしかないようです。

全てが衰退傾向にある日本を立て直すのに何が重要かと考えた時、その鍵は「人」「教育=学び」の立直しにあると考えています。この大変な時期にそんな悠長な、と言われるかもしれません。しかし、ここ二十年余、政治も多くの国民も経済の回復ばかりを追いかけてきましたが、その結果、いい方向に進んだことがあるでしょうか?経済だけが悪いのであれば、それでよかったのかもしれません。しかし、経済のみならず全てが問題だらけの今、そして一昔前までは認識する必要がなかった地球環境の有限性を認識せざるを得なくなってきた今だからこそ、これまでの小手先の経済重視の政策では効果を挙げられないことを冷静に受けとめ、基本に立ち返り、どんな社会を創るのか、そのためにどんな価値を根付かせるのか、どんな政治や経済が人々に真の豊かさを提供できるのかといった本質的な課題に真剣に向き合う必要があると思うのです。そしてそのためには、過去を振り返り、今を冷静且つ的確に把握し、将来を見通す力が不可欠で、そうした力を生み出す「教育(学び)」の価値を、社会全体で認識し、その改善に全力を注ぐことが大切ではないかと思うのです。(特に昨今の政治家や経済界のリーダーの発言・行動をみていると、この人たちにこそ、「学び」が必要だと痛感させられます。)

教育の価値については、これまでも古今東西を問わず、多くの人が指摘しています。そして、今でもこの重要性は表面的には誰も否定しません。 しかし、人を育てるには手間隙がかかること、効果が表れるには時間がかかることもあって、いつも後回しにされるのも「教育」で、現に日本の教育関連の公的支出(GDP比、07年度)はOECD28カ国中最下位の3.3%という状況です。このような貧困な状況は学校教育に限ったことではなく、家庭でも子どもの教育は学校や塾任せ。企業でも「人は材(料)」であっても「人は財(産)」という意識は薄れ、多くの企業で人を育てることに時間も予算もかけなくなっています。また大学でも本来学問を深める時期である三年生から就活といった状況。こうした状況は、社会全体が教育の価値を軽視していることの現われだと思うのです。

その原因を考えた時、本来日本の教育が目指す方向と、現代社会の主流となっているアメリカ発の市場経済、グローバル主義が前提とする人間像が大きく異なることに気付きます。2006年に改正された教育基本法では、「……、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を進める」とあります。この方向性は正しいと思います。しかし、昨今の政治家や経済界、そして多くの国民がとらわれている市場経済、新自由主義では、「自らの満足を最大化する目的をもって合理的に行動する人間」が前提であり、他を思いやるといった利他や公共の精神などは求められておらず、人類共通の公共財である環境を守る思想も含まれません。またグローバル主義では伝統の継承どころか壊す力が大きく作用します。

経済発展に役立つ人材を育成する傾向が強化されたのは、特に高度経済成長以降です。勿論そうした教育も必要ですが、ここ十数年はますますその傾向が強まり、本来国や社会の基盤となる「人」や「教育」が「経済」に翻弄され続けている状況は明らかにおかしな状況です。「人間としての本質的な価値や専門を深めさせてやりたいが、就職させなければならない。」と、ある大学の先生が語っていました。また「時代の流れだから仕方ない」という声もよく聞きます。しかしそれでも、これまでのやり方があちこちで弊害を生み出し社会全体の衰退を招いているとするならば、覚悟を決めて改めるしかありません。短期的視点ではなく中長期視点で、小手先ではなく真正面から、「経済」ではなく「教育」を本来の目的に沿って立て直すことで、社会の様々な変革を促していくといった、発想の転換が必要だと思うのです。急がば回れ、迷う時は基本にもどれ、です。

では、どのような教育が必要なのか。環境文明21が進めている環境文明社会プロジェクトでは、地球の有限性についての認識や公共意識、次世代や途上国への配慮と責任、多様性への寛容さ、などを育む教育が必要だと考えています。加えて私自身は、前述したように、過去を見直し、今を認識し、将来を見通す力、想像力と判断力、創造力を育む教育や学びが必要だと思います。また、NPOとしては、「政治家や他人任せ」ではなく、自らが社会を変えるために行動する力も育てたいと思います。さらに最近は、「つながり」の大切さも指摘されていますが、他者とかかわり、つながり、分かち合う力も重要です。そして、学校だけでなく、家庭、地域、職場といったあらゆる場面で、子どもだけでなく全ての人が学びあうようになれば、政治も経済も技術も、私たちの暮らしや環境も、そして何より人間が、質的にもっと成長し、よりよい社会に変化して行くと思うのです。環境同様、コストとしてカウントされないという理由で、これまで切りすてられてきたものの再生です。

「人間として当たり前のことができなくなった結果として、環境問題が起きてきた。環境問題も教育問題も根っこは同じ」との思いから、「有限な地球環境の中で、人としての生き方や社会経済のあり方を学び、その実現に向け行動できる人間を育てる環境教育」を目指して会社を立ち上げたのが今から20年程前。その思いは今も変わりません。そして環境文明21も18年間、「環境問題は文明の問題」ととらえ、ぶれることなく、価値観や制度の変革を求めて、調査研究や政策提言、普及啓発を続けてきました。この方向性に間違いはないと確信しています。

今年は、同志の輪が少しでも広がるよう、それが具体的な力に進化するよう、皆様のお力も借りしながらがんばっていきたいと思います。


日本は衰退するか?(1)

加藤三郎


最近、各分野で日本の“衰退”現象を嘆く声が大きくなってきた。衰退論が出始めたのは、日本が1968年以来維持してきた世界第2位の経済大国(GDPで表現)の地位を昨年には中国に代わられ、3位に後退することが確実視されるようになってから、特に喧しい感じがする。この問題について、今月と来月の2回にわたって、私見を率直に述べてみたい。

日本の衰退現象は、昨日今日突然出てきた話ではない。後でも触れるように、識者はかなり前から日本の衰退や、それへの対処を指摘していた。しかし、日本人の多くは未だに過去の成功体験、特に1980年代の『ジャパン・アズ・ナンバーワン』的賛辞が長いこと心地よく耳に響いていたせいか、能天気なまでに楽観的で、日本の技術も政治も経済も文化も、みな問題がないと思う人が結構多いようである。環境対策についても、「日本の環境対策・技術は世界に冠たるもの」と言う政治家や産業界の首脳たちは少なくない。

しかし、さすがに最近は、楽観論が一転して今度は極端な悲観論が出始め、日本はこのまま凋落していく一途だといった見方も目立つ。実際、先程のアジア・オリンピックの成績を見ても、かつてはダントツであった日本は、今や中国・韓国にその座を奪われ、存在感も薄れてきている。ちなみに今回の成績は、金メダルの数で言えば、中国199個、韓国76個、日本48個であり、メダル総数で見ても、それぞれ416個、232個、216個で、日本“惨敗”との報道もあった。

スポーツだけではない。最近の報道によると、日本が得意としていたリチウムイオン電池も2010年世界のシェアは、首位だった三洋電機が韓国のサムスングループに抜かれ、液晶パネルなども、つい先頃までは日本企業が9割以上のシェアを占めていたのが、ついに韓国企業に首位を奪われる見込みとのこと。液晶テレビ、薄型テレビなどにおいても韓国勢に追い抜かれ、シャープが長年首位を保ってきた太陽パネルでは、中国企業に大きく水をあけられ、あっという間の転落である。

また、国際競争力ランキング(スイスの経営開発国際研究所調べ)では、日本は27位(シンガポール1位、香港2位、台湾8位、中国18位、韓国23位)となっていて、日本はタイ(26位)にすら追い抜かれている。右肩上がりの日本経済を当然の如く謳歌してきた世代にとっては、今起こっている現象は、信じがたいほどの凋落ぶりだ。しかしながら、このような事態は、早くから識者に指摘されていた。なにしろ、日本の活力低下の最も基本的な要因である人口減少、高齢化、少子化といった人口構造の大変化は1年や2年で起こった訳ではなく、20年も前から比較的正確に予測出来る分野である。専門家からの警告に、国民も、政治家も耳を傾けなかっただけである。その大変化が持つ重大な意味を見抜けなかった凡庸な人たちがリーダーであり、彼らを選んできたのも国民の凡庸さであると言ったら言葉が過ぎるだろうか。

著名な経済学者であり、文化勲章も受章している森嶋道夫教授(1923―2004)は、『なぜ日本は没落するか』(岩波、1999年)を著し、その冒頭で「日本はいま危険な状態にある。次の世紀で日本はどうなるかと誰もがいぶかっているのではなかろうか。私も本書で、照準を次の世紀の中央時点―2050年―に合わせて、その時に没落しているかどうかを考えることにした。そのためには、まずなぜこんな国になったのかが明らかにされねばならない。」と書き、没落の原因を分析し、救済案を論じ、結論として次のように書き残している。 すなわち、21世紀の日本は、「幕末の時のように国際政治的には無視し得る端役になっているだろう。もちろん20世紀での活躍の記憶があるから、幕末の時のように全くの無名国ではない。しかし、残念ながら日本が発信源となってニューズが世界を走ることは殆どないだろう。」と教授は述べている。その上で、没落の原因として、人口の問題、精神の荒廃、金融の荒廃、産業の荒廃、教育の荒廃の5つを取り上げ、各々詳しく論じている。中身については、本書を見てもらう他ないが、この中でただ一つの救済案として、歴史の共同理解の必要と東北アジア共同体を作ることに日本が努力を傾けるべきことを強調している。

次に、私もとても好きな2人の作家の見方を紹介しよう。まず、瀬戸内寂聴の『老いを照らす』(朝日新書2008年)には、次のように書いている。「私は85年生きていますが、長い人生の中で、いまが一番悪い時代だと感じております。戦前や戦後もひどい時代でしたが、支配層はともかく、市井の市民の中には、今よりずっと多くの信じられる人々がいたような気がします。いまは社会全体の質がどんどん劣化しているように感じるのです。」

もう一人、五木寛之の『人間の覚悟』(新潮新書2008年)は、次のような言葉で始まっている。「そろそろ覚悟をきめなければならない。最近、しきりにそんな切迫した思いがつよまってきた。以前から、私はずっとそんな感じを心の中に抱いて、日をすごしてきていた。しかし、このところ、もう躊躇している時間はない、という気がする。いよいよこの辺で覚悟するしかないな、と諦める覚悟がさだまってきたのである。」彼の言う覚悟とは、「闇が深さを増してきました。時代は「地獄」へ向かって、劇的に近づきつつあるようです。母親の子殺し、無差別殺人はすでに衝撃的な事件ではありません。(中略)みなが無言で崖っぷちから谷底を覗いているような気配がある。地獄の入り口の門が、ギギギ、と音を立てて開き始めているような実感がある。」とまで述べている。

このほかにも様々な人から警告が発せられているが、わが国のリーダー諸氏は未だに、その警告を真剣に受け止め、それを乗り越え、新しい世界を切り開くための戦略作りに手を付けているようには、少なくとも私には見えない。政治の世界を見れば、「小沢だ、反小沢だ、カネだ成長だ」といった次元の話ばかりで、例えば、日本の憲法をどうするか、国家として税などの収入構造をどのように作り直すか、支出構造をどう変えるのか、中国強大化の中での外交・防衛体制はどうするかといった事案について国民を交えて議論をし、さらにその対応過程で発生する様々な軋轢に対して、どう説得し、未来に続く道を示せるのかといった議論は、政治家だけでなく、マスメディアを含めて、残念ながらほとんど見かけない。

このような中にあって、国民の多くは、「あれこれボロが見えてきたけれど、環境分野は、大丈夫。」とか、「日本の省エネ技術や環境技術は世界一。国際社会で、リーダーシップを持てる分野は環境ではないか。」と楽観する人が沢山いるようである。実際、菅内閣が「新成長戦略」なるものを打ち出し、そのいの一番に「環境・エネルギー分野」を置いたのは、国民の期待や漠然とした認識を反映しているのではないだろうか。

(次号へ)