2011年6月号会報 巻頭言「風」より

今回の大震災がもたらしたもの

加藤 三郎


東日本大震災と原発事故の発生から、3ヵ月余りが経った。この間に内外のメディアは実に様々なものを連日報道し、また画面に映し、見る人の心を揺さぶり続けた。悲劇あり、自己犠牲の物語あり、勇気ある人の話あり、時には悪徳行為を非難する記事あり、希望の再建プランあり…と盛りだくさんだ。多くの方と同様に私も感じることが沢山あったが、敢えて集約してみれば、今回の災害は「一つの時代」を突き崩し、押し流してしまった実感と、頼もしい市民社会が根付き始めたとの予感の二つである。

突き崩された時代の特長とは、政治・経済や科学技術に関する「やっかいなこと、難しいこと」は、ほとんど他人(特に「お上」)任せにして、もっぱら、便利さ、快適さ、経済性などの自己利益の追求に明け暮れていられたこと。最近でこそ、破綻現象も目に付くようになったが、いままでの約60年間、日本では「他人任せ」でもとりあえずは不都合なく生活できていた。そこに未曽有の災害が、これまで惰性で形作ってきた街と生活を根こそぎ押し流してしまう恐怖と苦難を被災者だけでなく、この場面を、テレビなどを通して臨場感をもって見ていた多数の人々も共有した。原発など人間が作り上げたものはいくら精巧に見えても所詮、自然の猛威の前にはひとたまりもないことを再確認させられたと同時に、人が生きる上で最も大切なものまで、人任せにしてきたことへの反省が出てきたと思われる。

その一方で、大災害発生の直後から、前例のない程多額の義援金が寄せられ、瓦礫の山となって条件が極めて厳しいなかにも関わらず、多数のボランティアが支援に自主的に駆けつけた。この現象を見て「大切なことまで他人任せにし、もっぱら自己利益の実現に励む身勝手な市民社会」から「自主的、主体的に判断し、自己犠牲も厭わず行動する市民社会」へと移行したと言ったら、現時点では多分言い過ぎであろう。しかし、95年の阪神淡路大震災から16年を経て、ボランティアやNPOの存在と活躍が益々大きくなり、市民社会に顕著な、しかも勇気づける大変化が起き始めていることは確かであろう。

さて、難しい選択を迫られる問題の一つが、原子力問題である。半世紀近く、その安全性に疑問を呈する専門家やフリーのジャーナリストの声は消えることはなかった。また、地震の専門家からは、地震の巣のような日本列島の上に、未完成のシステムである原子力発電所を据える危険性が指摘されていた。しかし、いわゆる原子力推進派の人々だけでなく、多くの善良な市民も、大略、次のように考え、原子力発電を容認ないしは納得していたのではかなろうか。

すなわち、「今日の文明社会においては、原子力に限らず、飛行機、鉄道、自動車、医療などでも、およそ危険のない技術はない。危険だ、危険だと叫ぶ一部の専門家の議論に付き合っていたら、どんなに素晴らしい技術も使えなくなってしまい、生活は江戸時代どころか、石器時代に戻らなければならなくなる。

原子力発電については、責任ある役所も、権威ある教授連も安全だと繰り返し言っているので、我々素人としてはこれを信ずるべきではないか。百歩譲って完全には安全でないかもしれないが、日本の電力の3割を担っている原子力を抜きにしては、豊かな文明生活は成り立たない以上、多少の危険は覚悟して生きるしかないのではないか。同じことは、飛行機などにも言え、それが科学技術に依存した文明社会に生きている者の宿命であり、多少の危険も甘受すべきだ。

温暖化対策の議論もそうだけれど、危険だ、危険だと云い募っている人たちこそ、これまで築き上げてきた科学技術の成果である快適性、モノの豊かさを奪い去ることを厭わない人たちではないのか。はっきり言ってしまえば、多少温暖化したって何も困らないが、原子力発電が停止してしまったら、その瞬間から社会は闇となるのだ。」

以上は、私がこれまでいろいろな人と議論してきた経験に沿ってまとめた原発を推進する立場の人の見解だ。しかし、この種の主張の弱点は、なんといっても、肝心な安全性の判断は、役所や権威者任せにしてしまって、個人としての主体的な判断はしないことと、現状追認の思考パターンに陥っていることだ。しかも、原子力については、安全と考えながら、その立地は交付金や補助金をテコに、福島、新潟、青森等の諸県に押し付け、決して東京などの大都市には立地してこなかった倫理上の問題点も、棚上げしたままである。私たちの願いは、出来るだけ多くの市民が、お上や権威者に判断をすぐ委ねてしまう悪習から脱却し、自ら考え、発言し、行動するようになることである。そのプロセスで、私たちNPOは判断材料の提供などのお手伝いは出来る。

ところで、本稿においては、原子力問題を中心に論じてきたが、それ以外にも、国民が十分に知らない間に進められている事業はいくつもある。例えば、東京・名古屋間を40分、東京・大阪間を67分(平均時速392km、最高時速500km)で結ぶ予定のリニア中央新幹線新設計画である。鉄道が、何故、こんなに速くなければならないのか。在来の東海道新幹線はどうなるのか。使用電力量や乗車料金はいくらになるのか、深いトンネル続きのようだが、火災、停電、地震等への安全は確保されるのか等々疑問が沢山あるが、これまで国民一人ひとりに向けての説明も判断材料の提供もないのに近い。またしても、一部専門家と役所と関係議員だけで、事実上決めてしまい、ツケは国民にまわすことになるのではないかとの危惧の念は深い。

いずれにせよ、今回の大災害が社会や生活に関する重要事項を他人(特にお上)任せにしてきた長い習性を洗い流し、市民一人ひとりが、判断し行動する参加型市民社会を創る大きな契機になることを強く願っている。