2019年2月号会報 巻頭言「風」より

私の「破局」論

加藤 三郎


昨年の12月号本欄でも書いたように、私はこのままの経済・社会・政治状況が続けば、そう遠くない時期に、現代の文明社会はおびただしい数の犠牲を伴う破局に至るのではないかとの思いを拭えないでいる。

言うまでもなく、私自身、破局などが来てほしいと望んでいるわけでは毛頭ない。しかし、人類は二世紀ほど前から、石炭、石油、天然ガスなどの化石燃料という強力なパワーを利用して社会を駆動し続けている。それを可能とする科学技術は高度化の一途をたどり、この二つを制度的に支えるインフラ(自由主義、民主政治、グローバリズムなど)を備えて、地球の環境を猛烈に豹変させてきている。

今から120年ほど前の20世紀初頭では、世界人口は16億人程度だったのが、今では76億人のレベルに達し、経済的にも拡大し続けて いる。しかもそれは、限りある地球環境の中で繰り広げられてきており、限界に達した地球環境は、様々な形で悲鳴を上げている。そ の結果は気候の異変であり、生物種も個体数も人間活動に追われてどんどん減少しているのに、政治も多くの国民も、その危機にはま ともに対応しようとしていない。それどころか、もっと経済が豊かになり、もっと快適な生活をしたいと、人々は競い合っている。

このような状況を、この30年ほどつぶさに見てきた私としては、生半可なことではとても危機を回避することはできず、恐らく、豊かさを求めながら、阿鼻叫喚の中で、この都市・工業文明が崩壊していくのではないかという悪夢をどうしても拭えない。しばらく前までは、「破局」といった強い言葉は出来るだけ使わないようにしてきたが、もはや、きちっと思いを伝えないと、環境専門家としての責務が果たせないと考えるようになり、「破局は近い」とか、「人類社会は滝壺に向かって進んでいる」といった言葉を正直に使うようになっている。

私の考える「破局」とは、現状のシステムを維持できなくなり、億人単位の人が悲惨な結末に陥ることと考えている。

ところで、ある人から、「あなたの言う破局とは、具体的にはどういう状況になると考えているのか」と尋ねられたが、簡単に説明すれば次のようなことになろう。

1)環境面

もはやその兆候が明らかになってきているが、極端な気象現象が頻発するようになり、長時間豪雨に見舞われ、その結果大洪水や土石流が発生し、人命だけでなく建物や公共インフラが大きく被災する。あるいは干ばつや熱波による山火事が頻発し、更には動植物の質及び量が損耗し、季節感が極めて不安定になる。一口で言えば、生命と人間生活の基盤である環境の全面的な崩壊である。

2)生活面

気象災害に巻き込まれて、人命のみならず平穏な日常生活が破壊され、食糧や水の安定供給が損なわれる。更に交通システムがしばしば寸断され、熱中症や感染症なども頻発するようになる。こうした中で、富める者は経済力で生き延びるすべを一時的には確保するだろうが、貧しく弱い立場にいる人たちは生きるすべを失っていく。これは社会の不安定の原因となり、暴動やテロなど治安の維持が困難になる。

3)企業活動面

事態は企業活動にも当然大きな影響を与える。社員の通勤・移動もしばしば困難に見舞われ、鉄道、道路、橋梁等の破壊により、事業活動そのものの長期に亘る停止を余儀なくされる。既にしばしば体験しているが、観光業なども大きな影響を受け、それは企業活動の安定を著しく損なう。

4)政治面

これら災害による復旧対策費が膨大化していく。毎年のように、昨年の西日本豪雨のような広範で大規模な被害が発生すれば、被災自治体はもとより、政府の財政にも極めて大きな負担になる。もし毎年GDPの5%~10%の災害が起これば、今ですら非常に厳しい国の財政は破綻に追い込まれるか、既にいくつかの国で行われているような市民サービスの大幅な削減につながる。こうした事態もまた、政治の不安定化をもたらし、貧富の格差解消を求めてポピュリズムやファシズムに走り、無謀な戦乱に発展しかねない。

5)文化・価値観

過去数世紀にわたり、人は自由、民主、基本的人権の尊重、公平・公正といったことを重要な価値としてきたが、環境の破壊やそれに伴う食糧不足などで重大な事態に立ち至れば、これまで私たちが当然と思ってきた価値も失われる可能性が大きい。既に、豊かな欧米の生活を求めて命懸けで移住しようとする中東やアフリカ、南米からのおびただしい難民の群れを見ていれば、将来、どのような社会が出現するか、誰しも不安になろう。

冒頭にも述べたように、破局は是非避けたいと思ってはいるが、そのためには、大きくは次の二つを、政治家はもとより多くの国民が理解しなければならないと考えている。

第一に、地球環境は有限だということを肝に銘ずることである。今現在、地球環境の収容能力を既に7割ほどオーバーしてしまって いる事実を、私たちの生活や経済活動、政治の展開にあたっても、前提に据えなければならない。

第二は、私たちはこれまで、経済(GDP)を伸ばすことは良いことだ、それは人々に幸せをもたらすと信じてきたが、このGDP成長 至上主義をやめることだ。身の回りを見れば、高速自動車道や新幹線、航空機、冷暖房、パソコン、スマホなどなど、いずれも私たちの生活を便利で快適なものにするために、次から次へと商品化され、私たちは競うようにそれを買い求めてきた。これをすっかりやめようといったら、誰もついてこないかもしれない。しかしここにメスをいれ、ある程度の利便性や快適さを肯定しながらも、足るを知る簡素な生き方に戻る必要性を理解し、実行しなければならない。