1999年7月号会報 巻頭言「風」より

公共事業を「整然たる破壊」としないために(2)

加藤 三郎


前回私は、公共事業が単に景気浮揚の道具として、また財政発動という名の安易な経済対策として「軽く」扱われる傾向が近年ほとんど常態化してしまっていることを批判した。その際、公共事業の役割や性格さらに環境に与える影響を巡って国会で議論があり、そこで環境庁長官であった石原慎太郎さんから、公共事業のなかには「整然たる破壊」となる事例が多い旨の指摘があったエピソードを紹介した。

この国会議論があったのは、政府が「閣議決定」という形式をとった行政指導による環境アセスメントの制度化すらまだしていない22年前のことである。その後、アセスメントの法制化に向け、関係者の長年の努力の結果、昨年になって環境アセスメント法が制定され、本年から施行された。アメリカに遅れること29年、先進国の中でも最も遅い法制化になったが、経済優先の日本の政治行政のなかにあって、環境庁・自治体の関係者をはじめ、これを制度化することに奮闘された方々に敬意を表したい。

この間に、公共事業の環境に及ぼす影響の評価とそれに基づく対策手法には大きな進歩がなされた。法制化に伴いこの制度の持つ意義も大きくなった。名古屋市の藤前干潟のごみ処分場としての埋め立て中止決定は、その解り易い好例だ。このように、公共事業を「整然たる破壊」としないための環境保全面からの要件としては、環境アセスメントの実施をまず挙げねばならない。

しかし、環境アセスメントさえちゃんとやっていれば、公共事業が広く国民に評価され、支持されるものになるのだろうか。私は、それだけでは足りず、もう一つの重要な配慮事項があると考えている。それは、各事業の必要性そのものを厳しく検討することである。

「必要性」といっても、いろいろな段階のものがある。災害復旧事業のように、コストにかかわらず復旧を行い、人間の日常的な生活を一刻も早く確保するために必要な事業。このような場合は、いわば「絶対的必要性」といったものだ。これに類するものとしては、内容にもよるが、治山治水、飲み水の確保、汚水やごみの処理など、いわゆるライフラインの確保にあたるものが多い。このような事業は、その性格上、「整然たる破壊」と批判される例はそう多くはない筈だが、それでも事業の設計や施工の方法が悪く、自然生態系や景観の破壊につながり問題となる例も跡をたたない。

つまり、事業そのものは絶対的に必要であるが、そのやり方において環境の保全とどう調和をとるかの問題である。しかし事業の必要性そのものにコンセンサスが得られれば、あとは環境アセスメントをきちんと実施することに問題は帰着する。

より難しい問題は、いわば事業の「相対的必要性」の判断に係わる問題である。例えば、四国と本州とをまたぐ橋を三本も四本も必要か、それも巨額の費用をかけて今つくる価値があるのかどうかといった判断にかかわる。橋をかける必要性は一応は認めても、そこにかけることが、①今どうしても必要か、②同じく必要な他の支出(例えば、福祉、環境保全、教育…など)との比較においてもなお必要か、などについて、説得力のある判断を出せるかどうかである。例えば、大阪空港、関西空港があるのに神戸空港が本当に必要か、東京湾横断道路(アクアライン)を1兆4400億円余(1kmあたり約950億円)かけてつくるぐらいなら、他にお金の使い道がなかったか…などの疑問である。こういう「相対的必要性」については、国民の間で明瞭なコンセンサスに至るのはほとんど至難であろう。ある人にとっては、橋は必要であり、また他の人にとっては全く不要となり、その間の合意は難しかろう。しかしその合意に近づくことは出来るし、その努力はしなければならない。そのカギは、やはり国民にわかり易い型での情報公開であるが、何よりも大切なのは国民の側においても情報を積極的に取 り、判断する努力をまず自らがすることである。

先ほどの橋をかける例でいえば、まず事業者側で橋をかける必要性をメリットとそのコストを含め明らかにし、国民の理解を得る努力をすることである。また国民の側は、納税者として橋のメリットとそれがそのコストに見合うかどうか、そのお金は他の用途に使ったらどうなるか、検討してみるべきである。

私なら、例えば道路建設に毎年、中央、地方の政府支出を13兆円もかけるぐらいなら、そのうち1%(1300億円)だけでも削って自然エネルギーの開発と普及にまわしたら、日本の環境だけでなく、21世紀に向けての新産業基盤、最近政府が好んで使う言葉で言えば、「産業競争力」の強化につながる筈だと考える。さらにもう一言私の本音を言えば、アクアライン1km分の建設費(950億円)があれば、当「考える会」クラスのNGOであれば、なんと約2000年分(10団体なら200年分)の活動費総額になり、この方がよほど日本を面白くし、活性化するに違いないと考えるのである。

ただ、このようなことを国民一人ひとりが考えるのは、情報が十分に公開されたとしても、役所は縦割りであるので、事業間の垣根をこえて総合的に比較検討することは容易ではなかろう。そこで、このような垣根を超えて複眼思考で考え、提言できるのはプロフェッショナルなNGOを育て、社会のなかに用意しておくしかないのではないか。私が本誌でNGOの重要性を繰り返し述べているのもこれがあるからである。