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2.持続可能な発展~強い持続可能性の重要性について
人類誕生以来、現代は、史上初めて「地球環境の先行きについて、人為的な要因による大きな懸念が生じている時代」と言ってよい。これまで人類は、地球上の自然が作りだしてきた自然環境を基盤としてその生命を当たり前のようにつないできた、人類の文明の発展そのものが地球環境を損なうという事態が生じつつあり、このままでは、人類の文明の崩壊にまでつながる危険性が高いことを直視する必要がある。
「持続可能な発展」という概念は、もともと経済発展と環境保全との対立をめぐる1992年の環境と開発に関する国連会議で広がったものである。今では2015年に国連が提唱したSDGsがより身近な概念となり、AIの利用や国際紛争、経済格差などより広い観点から持続可能な発展をめぐる議論がなされているが、この問題の一番の根底には人間自らによる地球環境の破壊があると考えられる。
一方で、このような環境破壊が私達にもたらす問題は、先人により古くから認識されていた。日本では、江戸時代の陽明学者であった熊沢蕃山が、その著「集義和書」で、「万物一体」や「草木国土悉皆成仏」という言葉を用いて、人間社会における自然の重要性について説いている。また、近代経済学の始祖の一人と言われている英国の経済学者JSミルも、自然がもつ大きな価値が経済発展で失われることを危惧し、いわゆる「定常経済」を提唱したことが知られている。
また、明治時代の公害問題の解決に、人権と環境保全の観点から心血を注いだ政治家、田中正造は、「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」との言葉を残している。
さらに、この問題を深く追求したアメリカの生態経済学者ハーマン・デイリーは、より具体的に、以下のような「持続可能な発展の3原則」を提唱した。これは再生可能資源に焦点を当てた自然資本を、持続可能な発展の基本とする考え方である。
① 再生可能資源の消費の速度は、再生の速度を上回らないこと(例えば、海の魚は本来再生可能資源であるが、その繁殖の速度を上回って漁獲してしまうと、その魚の資源そのものがなくなってしまう)。
② 再生不可能資源の消費速度は、それに代わる再生可能資源が開発されて代替的に消費される速度を上回らないこと(例えば、プラスチックは石油という再生不可能資源から作られるが、そのプラスチックに代わる再生可能なプラスチックが開発されないままに消費されると、いずれはプラスチックそのものが作れなくなってしまう)。
③ 汚染物質や廃棄物の排出量は自然による無害化処理能力を上回らないこと(化石燃料を燃やすことによる二酸化炭素の大気への排出(廃棄)が大気の組成を変え、気候変動を引き起こすこと、原子力発電による放射性廃棄物の無害化にはきわめて長期の時間を要すること等はその一例である)。
以上の原則を図示したものが、図1である。人間が利用する資源を、森林や水などの再生可能資源と石油・石炭などの非再生可能資源に分けて、人間が環境からそれらを取り込み、生産・消費をしたうえで、廃棄物として環境に排出する状況を示している。上記①の条件が満たされているときは、再生可能資源が経済と環境との間で循環し持続可能性が確保されていることが理解される。しかし、非再生資源が③の条件である自然の無害化処理能力を超えて大量に使用されるようになると、廃棄物が環境中に一方的に蓄積され持続可能性が阻害されることとなる。②の原則は、このような状況が破局的にならないうちに、再生可能資源をベースとした資源が循環していく状況に戻していかなければならないという考え方である。
また、日本の経済学者宇沢弘文は、ゆたかな社会の構築をめざし、「社会的共通資本」という考え方を提唱した。その内容として、美しい豊かな「自然環境」、電力・ガス、交通機関などの「社会的インフラストラクチャー」、教育、医療をはじめとする「制度資本」の3つをあげており、これらの資本は、人間が人間らしい生活を営むために重要な役割を果たすもので、決して市場的原理によって支配されてはならないし、また官僚的基準によって管理されてはならないとしている。
さらに近年では、地球の限界(プラネタリー・バウンダリ)はどこにあるのか、という研究が科学者により進められている。気候変動、土地システムの変化、淡水利用、生物圏の健全性、新規人工物(もともとは、有害化学物質などが想定されていたが、現在はプラスチックや人工知能(AI)なども含まれている)など9分野における具体的な限界の数値が推計・算出されはじめているが、気候変動をはじめ、いくつかの数値はその限界をすでに超えている。
しかし、現実の社会は、多くの政治家も国民も相変わらず経済成長にこだわり、気候変動問題をはじめとする環境問題にはあまり熱心ではないように見える。それは何故なのか。
環境経済学では、「持続可能性」について、「強い持続可能性」と「弱い持続可能性」という二通りの考え方がある。前者は、人間にとって森林や大気、水といった自然資本は必要不可欠なもので、人間が作り出す原子力発電所などのインフラや各種工業製品などの人工資本では代替できないものがある、という考え方である。後者は、「自然資本は必ずしも人間にとって不可欠なものとはいえず、人工資本で代替することができる」という考え方である。ちなみにハーマン・デイリーの3原則は、強い持続可能性の考えに立ったものと言える。
一方で、人類の発展と言われているものは、エネルギー源としての原子力発電ひとつとっても、これまで自然資本に頼って生存・活動してきた物事が、科学技術の発展に従って直接的な自然資本ではなく人工資本に置き換わってきていることが理解される。これは弱い持続可能性の考え方に沿ったものといえる。実際、現在多くの人が大都市に暮らしているが、それを支えているのが、多くの社会インフラと言われている人工資本である。
つまり、私達は知らず知らずのうちに、自然資本は減っても代わりに人工資本が増えてそれで満足できれば大丈夫という、いわゆる「弱い持続可能性」の考え方が当たり前という感覚になっており、自然資本が人類の生存を支えている基盤であるということを忘れがちになっているのではないだろうか。気候変動の進行など地球規模の環境悪化が深刻化している今日、それぞれの立場を超えて、私たちは今こそ自然資本を基盤とする「強い持続可能性」の考え方の重要性を認識し、それを追求していく必要がある。
日本はもともと自然豊かな国土をもち、その恵みを享受して暮らしつつ、美しい文化を育んできたという長い歴史がある。「強い持続可能性の追求」は、決して私達の「豊かさ」を犠牲にするものではなく、現代にあっても「自然を壊さず自然と一体となって暮らすこと」の豊かさと喜びを確かにする、より安定的で希望に満ちた世界を実現することであると確信している。
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